「四つのテスト」は他人を判断するための道具ではない

By マーチン “マーティー” ポスティック・ジュニア
(米国オクラホマ州、第5750地区パストガバナー、OKCサンライズ・ロータリークラブ)

FourWayTest論争の多い今日の社会では、政治的・社会的な議論で自分の支持を表明したり、誰かの考えや発言、行動を批判したりするために、ロータリアンが「四つのテスト」を利用することがあります。意見が対立する双方の会員が、互いに「四つのテスト」を使って自分の主張を裏付けたり、相手をおとしめたりすることもあります。ソーシャルメディアでも、「四つのテスト」 に背くと思われることについて意見し、そこにほかの人が意見や侮辱を追加していくといった状況です。

そうすることがロータリーに対する人びとの認識にどのような影響を与えるか、ほとんど考えもしないで。

そこで私は、基本的にこう考えるのです。

「四つのテスト」は鏡。窓ではない。

私たちは 「四つのテスト」 をとおして他人を見るのではなく、自分自身の考え、意見、行動を考えるべきです。このテストは私たちが自分自身について判断するための鏡であって、他人を判断するための窓にしてはいけません。

「ある考え、意見、行動が四つのテストに背くと判断したら、それは間違っていると言明するのがロータリアンの義務だ」という話を私は聞いたことがあります。また、さまざま話題において、論点を支持するために「四つのテスト」が引き合いに出されることがあります(それらの中には支持しがたいものもあります)。さらにネットでは、あらゆる思想や概念を支持するために、大量のいわゆる“事実”で議論の足場を固めるということも行われています。

「四つのテスト」とはそういうものではないと思います。考えをどう評価するかということより、お互いにどのように接するかということを、「四つのテスト」は語っているのだと思います。

もちろん、「四つのテスト」を守ることは簡単ではありません。「言行はこれに照らしてから」とあるように、自分がどのような考えをもっていても、大切なのは、その考えの下にどう行動するかということになります。例えば、「この人は好きじゃない」という思いがある場合、そこで何を行うべきか。私たちは、そういう思いや、自分を満足させるための否定的な行動にでたいという欲を払いのけることができます。逆に、相手に何かを言ったり、ほかの人に考えを伝えることもできます。

この点においてソーシャルメディアは物事を歪めてしまい、自分の考えに同調するコメントであれば、否定的で辛辣、または偽りであっても受け入れられてしまうのです。「四つのテスト」の名の下にそのようなコメントが投稿されたとしたら、それは明らかに公平ではなく、好意と友情を深めることなど絶対に不可能です。

そう考えると、政治的または社会的な物事について論じるときに「四つのテスト」に触れることは、それ自体がこのテストに背くことだと思うのです。人の見解に反対し、非難を浴びせながら、ある立場を支持するために「四つのテスト」を利用することなど決してあってはなりません。

私たちは、すべての友人に「四つのテスト」について学んでもらう必要があります。説き伏せる必要はありません。ロータリーは、非政治的、非宗教的な組織であることを自負しています。だからこそ、ロータリーは政府や宗教団体が踏み入ることができない領域でも活動してくることができたのです。倫理的かつ道徳的な「四つのテスト」を武器に互いを傷つけ、ロータリーの評判を汚すことはやめたいものです。

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「四つのテスト」は他人を判断するための道具ではない」への2件のフィードバック

  1. 4つのテストを私自身も自分の鏡としてではなく他人を見る窓と捉えていた所があります。
    良い勉強になりました。

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  2. 自分自身を律する為にのみ使用するものですね。掲載するにも特定の場所、例会の時間中など限定すべきだとおもいます。

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