寄稿者: 黄セミ(米山奨学生、韓日同時通訳者)
「武秀」
これだけでは、韓国名なのか、日本名なのか、それとも中国名なのか区別がつかないでしょう。
父、武秀は日本の植民地時代に生まれ、創氏改名政策によって日本名がつけられました。同年代の多くの人がそうであるように、父は日本に対する反感が強かったのです。若い頃は、会社が呼び寄せた日本人から技術を教えてもらうことに耐えられず、独学で日本語を勉強し、技術で彼らを抜いてしまったそうです。また、テレビで日本の話が出るとチャンネルを変えるくらい、父にとって日本は家族や周りの人たちの苦労を思い出させる痛ましい過去のようでした。
そのような父が、娘には「お父さんのように過去に縛られず、そしてお父さんから言われてきた先入観を捨てて、もっと広い世界を見てほしい」と言い、むしろ日本への留学を勧めてくれました。
父のサポートで、私は国際基督教大学(ICU)大学院の比較文化研究科に入ることができました。留学時代はロータリー米山奨学金をいただきながら、カウンセラーの中谷さんをはじめ、世話クラブだった東京南ロータリークラブのロータリアンより感謝しきれないほどの支援をいただきました。
ICUでは比較文化を勉強しながら、将来の仕事について考えました。研究者の道へ進むことも考えましたが、私に一番できることは何なのか、せっかくなら韓国と日本の懸け橋になる仕事に就きたいと思いました。
留学生だった2003年、第7回ロータリー日韓親善会議にパネリストとして参加したことがあります。その時、私のスピーチをブースの中で同時通訳している通訳者を見て、「これだ!」と思いました。
現在、国際会議通訳者として仕事をしています。
通訳者について、「黒子」を引き合いに出して説明することが時々あります。決して舞台の表に出ることはありませんが、なくてはならない存在。私は、両国の間で黒子のような存在になりたいと思いました。
留学から帰国した後は、通訳大学院で日韓通訳を勉強し、通訳者として働きました。そして2013年10月、私に夢や目標を気づかせてくれたロータリー日韓親善会議で、私は「黒子」になることができました。第12回韓日親善会議と、ソウルで開催された2016年ロータリー国際大会の「米山奨学会」分科会で同時通訳ブースに入った時は、感無量でした。
特に先日開催された「ロータリー米山記念奨学会財団設立50周年記念 世界米山学友による感謝㏌熊本」で司会を務めた時は、通訳者とは違う黒子でありますが、会場の皆さんの笑顔に心が和みました。
帰国したころから「ICU大学院で長く勉強したのに、学者の道に進まず通訳者になるなんてもったいない」と周りから幾度となく言われましたが、私の選択は間違ってなかったと思います。
人それぞれ自分にできることがあります。誰にでもわかるような目立つ役割ではありませんが、「黄さんに通訳をしてもらったお陰で両社のトラブルが解決できた」と言われる時は、なおさら思います。通訳こそ、両国のためにできる私の役割であると。
たまに子供たちに仕事をする姿を見せる機会があります。米山学友会の集いにはできるだけ連れていきます。私は、子供たちが教科書で学ぶ歴史のみならず、人と人の繋がりから日本について自分なりに感じ、考えてほしいです。
日本のアニメが大好きな中学生の長女は、アニメや漫画を日本語で読みたいと、2年前から日本語を勉強しています。
どんなきっかけでもいいです。私は両国について、子供たちが自分で考え、自分で判断する力を持ってほしいです。
日本のことがどうしても好きになれない、にもかかわらず、一生を日本名で暮らす矛盾の中で、希望とともに送り出してくれた父。そしてさらなる光となった私の子供たち。
韓国人にとって歴史は消すことのできない真実であります。しかしながら、いつまでもそればかりに縛られていては、希望も光も見いだせません。
矛盾の中で生きている父が、自分の娘に希望を託して日本に送り出してくれたように、私も子供たちの小さな光が、いつかは夜空を飾る素敵な花火になれるように支えてあげたいと思います。
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